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(にやーり)

なんか駄文を色々と。 まれに隙間情報を狙い撃ちする素振り(風味)のメモや、コントも。

とりあえず「涼宮ハルヒの驚愕」を読んで。(+その他)

 
 まず最初に。

 ‥‥まさか、ここ‥‥読んでなんかいないよな‥‥??
 いえ、98% ほどは冗談・ネタです、定型的な
  裏を返すと 2% ほどは割と本気で考えているという証左でもありますがね。
  まぁ無いでしょうが。


 それはそれとして。
 まず、この「驚愕」――実は知人が貸してくれたもので、もう手許にありません。
 一応はメモを取ってあって、それを基に書いているんですが‥‥底本を当たると言うことができませんので、その点はご容赦を。
 そんな酷いミスはないと思うんですがね。
  さすがに――どうやら、いわゆるスランプだったってコトのようですが――待たされ過ぎて自分で購入する意欲が湧きませんでした。
  もしかしたら――かつ初回の限定版が残っていたら?――後から買うこともあるかも知れませんけど、現時点では未定。

 

 

 そういえば。
 その貸してくれた知人の言うことにゃ。
 「割と(私って)キョンみたいな物言いするよな」――だそうで。
 まぁ無駄に入り組んだ、回りくどい物言いをするのは自覚がありますけども。
 自分としては、全く違うタイプと言うことは無く、また近いといえば近いかな――という程度だったんですが。

客「前に言わなかったっけ? なんかキョンみたいって」

――んー‥‥言われてみれば、なんか言われたような気も。
 まぁ劣化ハルヒとキョン紛いなら、ちょうどいいじゃないか。もしやするとラノベになるかも知れんぞ。

カニ「・・・・やなラノベだ」

 ――うるさいよ。

カニ「売れるとも思えない」

 ――それは知ってる。百も承知の上。
  先に自分で言っておく。無論ながら「それなりにイイ男」――では決して、絶対に無い。自信がある。磐石だ。

カニ「(苦笑)・・・・で。その発行・刊行元は、二次元ドリームノベル? パラダイム? それともフランス書院?」

 ――黙れバカ。



 ま、それはさておき。

 話立てとしては。
 前作「分裂」において分岐した状態・状況が統合されるって話。 うわ、随分と簡単にまとめちゃったよ。

 ほいで。
 あの新(?)キャラ、必要だったのかな、とは思う。
 それを言ったら、まぁ大概のものは別のナニカで代用が利くとは言えるけども、さすがにそういうことではなく。

 では、どういう点で作用していたのか。
 二つの世界(?)を統合すること。二つの世界の明確な違いの象徴であること。ついでにハルヒの(ある意味での)デタラメさや心情の象徴。
――こんなとこ?
 違う(≒不要)だなどとは言わないけれども、どうにも「なるほど」と言ったような収まりの良さが弱かった。

 なんだろなぁ‥‥読んでいても、ツマラナイとは思わないけれども、どうも何かモヤモヤした。
 言うなれば、微妙な歯切れの悪さのような。
 それにも件のスランプが影響しているんだろうか。いかにも難産の末に生まれました、とでも言うような。


 あと気になったこと。
 前のエントリにも少し書いたけど、上(前)巻の中盤――143ページ。未来人・藤原のキョンへのセリフ。

「とまれ、あんたはその少女人形が機能不全になっているのが許せないってわけだ――」

 ええ。
 この冒頭の「とまれ」は、以前に別のエントリでも書いたのと同様「(何は)ともあれ」が来るべき部分にあります。
 ついでに言えば――ちょっと子細は記録してませんし捜してませんが――別の箇所・別の巻には「(何は)ともあれ」と言う表現が用いられています。
 ええ、そうです。
 こういう小説の場合、地の文と台詞は別物です。
  いやまぁハルヒ・シリーズの場合、原則的に地の文が存在せず、その(ほぼ?)全てをキョンの独白や言葉で賄っているわけですけどね。

 地の文は、その観点がどこに在れど、内容・光景・人物の挙措などを説明するものですね。
 故に、正常な(範疇にある現代)日本語で書かれなくてはならないものです。
 しかし一方で登場人物の台詞と言うのは、その人物が発音・発声したものを文字で表し示しているもの、なのですから、こちらは必ずしもその制約を受けるとは限りません

 安易な例を挙げれば――例えば私・Alvz.00 やキョンのような性格の人物の台詞なら、古臭いとも言いうる、やや格式ばった物言いになるでしょうから、それを文字にしたところで大して変わりやしません。

「目の前と言うのか何と言うのか、とにかくここにある台湾メーカー製のノートパソコンは、さすがに安っぽい部分もあれど十分な機能性を有している」
――みたいなね。

 しかし一方で――さすがにギャルとかは面倒/無理だから――某客ちゃん風に言うとすると。

「これ。このノートパソコン、別に不満なんて無いよ? 普通に使えるし」
――こんなところですかね?

 これまたしかし。
 一方では「書き言葉」と「話し言葉」の違いと言うのもあります。
 これも前に書きましたが――「できんだろ」――なんてのは話し言葉として耳にします。
 ただ実際の会話での場合は、文脈のみならず、発音・抑揚、あるいは仕草や挙動も含めて解釈しますから、殆どの場合まず問題なく意図を汲めます。
 しかし、これを「~~ってできることなのかな?」と言う質問に対する返答として「できんだろ」と文字でのみ見ると、これが「できるだろう」なのか「できない(できぬ)だろう」なのか判然としない場合が多々あります。
 大概においては前者「できる(に決まってる)だろ」と言う意図の書き込みであるようには思いますが、文章・文言の読解と言うのは確率論で行なうべきものではありません。
 古語や暗号の解読では無いのですからね。

 無論いくら崩れきった口語でも、まぁ苦虫を噛みながらも言わんとしていることは理解できる/通じることもあるとは思いますけどね。
 しかし話し言葉・喋り言葉をそのまま文字にされたりすると、中には、何通りかの意味に取れてしまう場合も出てきます。
 しかも読点や記号を無くして、かつ誤変換でも加えようものなら‥‥。
  この辺の認識が甘いどころか完全に欠けているのに「文章力・言語能力が高い」と得意気に言われ、もう、どうしたらよいやら解からなくなったことがあります。


 おっとっと、閑話休題。

 ともあれ人物の台詞と言うのは、割と制約が少ない。
 何故なら、その時々(≒時代)の人物として発音・発声するであろうモノを文字として示すのだから、少しくらい崩れていても、その人物像を示す材料であるなら支障は無い。
 しかし、そうは言っても、発音・発声を 文字に変えているモノ なのだから、自由さにも限度・限界はある。
 発音・発声をあるがままに文字化したのでは意味が通じなくなることが懸念される。
 その限度を超えてしまうと――把握・理解できなくなる、あるいは理解するまでの手間が何倍以上にも増大する読者が(一気に)増える。要するに読むのが(悪い意味で!)面倒臭くなる
 もちろん、その量や頻度も面倒臭さに影響してくる。
 これこそが「書き言葉」と「話し言葉」の明快な違い。文語と口語の違い。

 口語をあるがまま文字化しても、口語の時のままの伝達性は保ち得ない
 量・比率はともかく、必ず減衰する。

 そういう文章・言語に対する、判断の妥当さ・さじ加減――要するに客観性が、その作家・小説家の才能や力量の一端であると私は考え・信じています。
 もちろん好みや読み手のクセなどなど‥‥主観にも左右されてしまう部分でもあります。
 しかし、その妥当とすべき範囲・範疇の判断に、主観に起因する揺れが作用するとは言っても、いくら主観が云々と言ったって、これまた限度もあります。
 「私の主観だ!」――と言いさえすれば、なんでも通る、どんなものにも使えるってわけではないのですよ。
  主観と言うのは、あくまで「個人的な趣味嗜好などに基づく好き嫌い」ですからね。
  「――1+1=2 と言うのは(俺の主観では)間違っている! 答えが違う!」――ほら、おかしいでしょう?
  正誤に係る話題には適応できないんですよ。
  きっと、こういう人は――主観=正誤も含む自分の判断――とか、思っちゃっているんでしょうねぇ。



 ほいで翻ってみるに。

 確かに「とまれ」が使われているが、それは特定の登場人物の台詞の中でのみのこと。
 それ以外の部分では、ちゃんと「ともあれ」が使われている。

 これは作者の谷川流という人物が「(何は)ともあれ」という言葉・慣用表現を(当然!)正しく知っており、しかも台詞と地の文の(役割や性格・制約の)違いも把握しており、更にキャラクタの性格付けの一端もあるのか、誤用を発音させると言う形でそれを使い分けて見せた――ということの証左となりうる事案であると言うこと。
 正直ちょっと驚いた。
 台詞の中では崩れ気味の口語(的表現)を使う――というような作家は実にゴマンといる。全く以って、枚挙に暇もない。

 しかし台詞の中とは言え、わざわざ、あえて誤用・誤表現を用いる作家・小説家なんて見たことが無かった

 まぁ 地の文でさえシッチャカ・メッチャカな、客観性に欠ける作家 ってのもいるけども。(:q)



 はい?
 私の好きな作家(文筆家・小説家)ですか?

 そうですね‥‥。
 文句(?)なく挙げられると言うと――「倉橋由美子(故人)」と「小林弘利」のお二方でしょうね。
 語り始めたら止まらなくなるので、語りません。
 今も、たったこれだけ・名前しか挙げてないにも拘わらず、もう書き連ねたくてウズウズするくらい。
  一つだけ書いておくなれば。
  倉橋女史の文章・文芸・文筆と言うものに対する姿勢・態度などは、正に今に至るまでの私の目指すものであり、またその著作からの影響も計り知れません。
  特に姿勢・態度に関しては、まだ自分の志向が明確でまでは無かった頃から概ね似たようなものを(ぼんやりと!)目指していたのではありますが。
  しかし女史も同様である(あった)と言うのは、期せずして、私の誇りでもあります。
 ――唯一、私小説またはそれに准ずるようなものに対する立ち位置・姿勢だけは異なりますが・・・・。


 あと――やや注釈や補足を付けたい部分もあれど――「菊地秀行」・「団龍彦(故人)」・「武者小路実篤(故人)」‥‥などでしょうか。
 いや、武者小路実篤は微妙かな、どうかな。
 それに「夏目漱石」や「森鴎外」また「川端康成」に「宮沢賢治」などが続く。 当然、全員故人。
  なお「太宰治」は入りません。何作か読んで、つまらないとは思わなかったものの、どうにも好きになれない。


 さすがに、ジュール・ベルヌやらハインライン、あるいはラブクラフトなどは‥‥翻訳でしか読んでいないので、心情的に(好きだけど)挙げにくい、挙げられない。
 加えて「古谷三敏」は‥‥本業は漫画家だからなぁ。
 そんで「西谷史」は‥‥決して嫌いでなどないものの、どうにも好きと言えない部分の記憶に左右されて仕方が無い。
  まぁ「東京 SHADOW」辺りだと、別に陰惨ではなかったんだけれども・・・・どうにも「デジタルデビル・ストーリー」と「神々の血脈」での印象が拭えない。

 ‥‥「藤井青銅」と「荒俣宏」も入れとく? あと「倉田悠子」‥‥(略)。
  言われてみれば(?)、その通りだな・・・・エロとか何とかを完全に除外しても、倉田女史の文章には神秘性を伴う美しさがあったなぁ。
  題材の云々は置いておくとしても、ああいう端麗な、正にしめやかな文章を書けるようになってみたいものだねぇ。



――と、まぁ。
 純文学やら古典的な大家(たいか)やら、あるいはジュブナイル/ジュニア小説系に‥‥と節操の無いところ。
 強いて共通項を挙げるなら――近代の文豪を除けば――ファンタジーと言うか S.F. 的なものが多くを占めているってところでしょうか。

 (敬称略)

 

テーマ:読書感想 - ジャンル:小説・文学

  1. 2011/10/13(木) 21:10:13|
  2. 読み物に係る雑文
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 時に、口調や文体が微妙に適当だったりする場合がありますが、仕様ですね。保証期間も切れてますし、どうにもなりませぬ。諦めてください。
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