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(にやーり)

なんか駄文を色々と。 まれに隙間情報を狙い撃ちする素振り(風味)のメモや、コントも。

これ事前に書いとかなきゃ(仏教)

 
 色々と書こうと思う上での、基本を提示しておかなきゃね。
 読み手の全員・大半が知ってるとは限らないし。

 ……つーか知らない人の方が多い気がする。

 まず今回は「仏教」に関する基礎知識+αです。
 多少は数多の俗説やら一部の私見やらを含めてますし、完全に厳密なモノではありませんけど、でも大体こんなもんだと思ってもらう分には差し支えない程度の精度(?)の確保には配意してます。
  それに私見って言ったって、そこまで詳しくは解説されないって範囲のことの間を埋めるって部分や、噛み砕いてる部分が殆どですし。

 いくら「心がけが大切だ」とは言え、正しいつもりで大間違いをやらかしてちゃ……ねぇ?(多少ならともかく)
 心がけも大切ですが――心がけがあるにも関わらず(より)正しい本来のモノを排斥する謂れはありません。
 それじゃ自分の間違いを認められずに逆切れしてるだけですからね。
 ただの身勝手ですよ。

 心がけがあるのなら――間違ってはいけないと言うことではなくて――より正しいものを志向すべきでしょう。
 知らないことや間違っていることが悪いのではありません。
 知らないと言うことを認めなかったり、正解を学ぼうとしなかったり、正誤の追確認や誤りを正そうとしないこと――が悪いのです。

  こういうものを目にした時に「あたしゃ大丈夫かいな……」と考えるタイプの人は、まず大丈夫です。
  ここで「何を偉そうに」とか考えるタイプは確実に駄目です。まぐれで当たってる部分もあるかも知れませんが、あくまで偶然。

  2008/02/03――一部を修正しました。
  2009/02/13――追記しました。
  2011/02/==――追記しました。



 

 まず仏教の基本理念。

 あくまでも自力本願。
 神仏に祈ったり捧げ物をしてご利益を(対価ででもあるように)得る……と言うのは実に大間違いです。
 希望や目的があるなら自分で邁進せよ、ってーことですね。

 より正確に表現しておくとすると、上述の内容は、いわば原始仏教での概念だと言えます。そしてそれは、どちらかと言えば上座部(小乗)仏教に色濃く残っていると言えるかも知れませんね。
 一方の大乗仏教は、その自力本願に「利他行」と言う概念を色濃く織り込んでいったものと言えるでしょうか。解脱するための方法論(の一つ)として、自分以外の一切衆生を苦しみから救うことを優先するのです。
 もちろん、どちらが良いとか悪いとか、優れている・劣っている、と言うものではありません。

 その際の指標や体験談(?)が経典(教典)や教義であり、その最終目標は、教えを所持する者全員の解脱=如来(=仏)となること、です。
  以前ちょろっと手伝った(?)ことがありますけど、お経を現代語訳とかすると面白いですよ。
  弟子(舎利弗・目連・迦葉…等々)を熊さん・八さんとして、釈尊(釈迦)をご隠居に仕立ててみたりしてね。


  ここから先は、いずれを取ってみても、まー諸説ありますから念のため。


 続いて信奉対象とも言える「仏」の簡略な説明をば。
  厳密には違うんですが、ここでは「菩薩」も仏に入れておきます。

[1] 如来(にょらい)
 修行やらによって悟りを啓き、真理そのものを会得し完成した者。
 それぞれ固有の国土を有し、そこで説法等(要は勉強会)を行なっています。最も有名なのは阿弥陀如来の、西方にある極楽浄土。

[2] 菩薩(ぼさつ)
 六道(りくどう:※1)を既に離れていたり、如来の元で修行(の仕上げ)を続けている有望な如来候補者、または予定者。
 とは言え基本的に殆どの菩薩は一応「天部」に属しているんですけどね。
 また本来「菩薩」というのは、菩提にある者――要するに、仏門にあり修行をしている者(≒出家信者)を指す言葉です。

[3] 明王(みょうおう:※2)
 各如来の化身(=教令輪身:きょうりょうりんじん)であり、主に慈愛と説諭により衆生を救おうとする菩薩に対して、力ずくで仏法に帰依(=改心:※3)させ救おうとする者です。
 元はインド辺りの仏教以前の神や精霊・妖怪(?)などだったりします。

 ※1 一般的な語としては[ろくどう]ですが、宗教用語としては[りくどう]と読みます。
 ※2 明王は大乗仏教には殆ど出てきません。主に上座部仏教の一部・密教にて信奉されます。
 ※3 要は言っても解らん悪人を改心させるため、力ずくで懲らしめ、心底から反省させる(切っ掛けにする)ってな感じです。


 続いて「六道」をば。

 衆生(≒人間を始めとする、あらゆる生命。魂と言い換えてもいいでしょうか)は、最終的に解脱し仏となることを目標としているわけですけど、そのための修行の一環として、生まれ変わり=輪廻転生(りんねてんしょう:※4) / 六道輪廻を繰り返していく形になります。
 その時、以前に生きていた時やそれまでの経緯等々を勘案され、次にどういう環境で生きていくかを定められるのですが、その際の大まかな状態を示します。
  因みに、その初期に於いては六道でなく、修羅道を含まない五趣であったとか。

 ※4 六道に同じく、一般では[てんせい]ですが、仏教では[てんしょう]と読みます。

 まず六道を下の段階(?)から順に並べると。

 地獄 ・ 餓鬼 ・ 畜生 ・ 修羅 ・ 人 ・ 天

 それぞれを簡略に説明してみましょう。

(1) 地獄道
 常に地獄の獄卒に責め苦を受け続ける、あるいは場所そのもの(煮立った血の池や針の山など)に苦しむ世界。
 責めを受ければ死にます(?)が、一定時間ごとに吹く風により生き返って(?)責め苦が再開され、刑期満了(?)まで延々と続きます。
 地獄には八つの区分があり、それぞれ責め苦の内容も基準刑期も異なります。
 なお最短の刑期でも(人間の時間で)優に1兆年を超え、最長では最早数えることのできない年数(1中劫)になるようです。
 年数を始めに諸説ありますけどね。

(2) 餓鬼道
 常に耐え難い究極の飢えに苛まれ続ける世界。
 食料はあるにはあるが、食べようとすると腐ったり灰になったりして延々と飢餓に苛まれる。
 あるいは食料は殆ど無く、その奪い合いや殺し合い(による食い合い)が行なわれ続ける……とも言われます。
 それ以外にも多彩なメニューが取り揃えられているようですけど。
 なおこの餓鬼道の刑期は、人間の時間に換算すると1万5千年を超えます。

(3) 畜生道
 要するに動物として生まれてしまうこと。
 地獄道や餓鬼道のような(積極的な)苦しみは無いものの、本能のみに支配され、多くは人間に使役・支配され、または常に弱肉強食の環境に置かれ、加えて仏の教えに触れることもままならないため、向上が非常に困難な状態なのです。
  この場合の向上とは、悟りを啓くこと、あるいは悟りに近付くことを指します。

(4) 修羅道
 常に争い事・諍い・戦争等が起こる世界。また天部の帝釈天軍との戦争が絶え間なく続くとも言われています。
 争いによる苦しみが続きますが、それはあくまで自分に起因します(いわば自己責任?)。
 それに気付くか気付かないか……畜生道よりは向上の可能性もある世界ですけど、やはり難しいようですね。

(5) 人道
 私たちが今いる、この状態・世界。
 四苦八苦と言うように数多くの苦しみもあるものの、そればかりでもありません。
 仏の教えに接することができ、何より(その大小はともかく)天どころか如来にもなりうる可能性が存在する世界でもあります。

(6) 天道
 天人が住む、とされる世界です。
 そして帝釈天だとか韋駄天、弁財天・吉祥天、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王や十二神将……等々の、天部の神々=仏教の守護神(護衛役)もここに含まれます。
 苦しみは全くと言っていいほどありませんけれど、寿命(最短でも900万年以上で、長ければ90億年以上)が近付くと現れる「天人五衰」と呼ばれる死の兆候に(だけ)は、かなり苦しむことになります。

 よく「死んでから地獄に落ちる」等と言われますけど、むしろ「地獄に生まれ変わる」と言う方が的確なのかも。

 また一部宗派では六道に加えて「四聖(界)」とか言われるものが示される場合もあります。
 大雑把に言えば、うち三つは下で挙げる「いい例外」に相当するものに準じ、残る一つは完全な解脱ですね。
 具体的には――声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界――の四つ。

 それで、この六道には例外が二つあります。

 一つめは菩薩の部分で説明したように、如来となる最終調整段階として六道から外れている状態。
 弥勒菩薩くらいしかいないかも知れませんけど――諸説ありますから。
 いい例外でしょう。
  ただ主流的な説としては、弥勒菩薩はあと1回の転生さえ経験すれば如来になれるものの、それを保留して菩薩に留まっているとされています。

 二つめは――外道、または天狗道とも言われる、六道から外され、かつ(正常な)解脱もできない状態。袋小路?
 ここには魔縁(まえん)と呼ばれる仏敵が当てはまります。
 悪い例外でしょうか。

 最近よく触れている「天狗」も、仏教に組み込まれた際に、この外道であり魔縁に組み込まれました。
  これが初期の頃の扱い方であれば、私見ですが天部に入っていたかも知れませんね。
  当時の(古代?)インドの神々は、軒並み天部の神々に名を連ねているわけですから。

 まぁその是非は別にして(日本の)仏教に於いては以下のような感じです。

 天狗とは、修験者・山伏や僧侶などが、仏法を修めていながらも増長したり、心の修養を怠ったりなど道を誤っている状態なのだとか。
 強力な法力や仏法を所持しているため修羅道以下に落ちることは無いものの、しかし道を誤っているために人道に戻ることも天に上がることもできず、ましてや解脱は以ての外で、宙ぶらりんになっちゃってるわけですね。


 ついでに補足・追記。
 六道に於ける「天道」は、更に色々と細分化される場合もあります。
 下から挙げていくと、まずは色界(しきかい)の六欲天(ろくよくてん)――四大王衆天(しだいおうしゅてん)・忉利天(とうりてん)・夜摩天(やまてん)・兜率天(とそつてん)・化楽天(けらくてん)・他化自在天(たけじざいてん)……の六つ。
  因みに天部の神々の殆どが住む須弥山(しゅみせん)は、四大王衆天と忉利天が該当します。
  忉利天が須弥山の山頂の辺り、四大王衆天はその麓から中腹まで……と捉えておくと目安となるでしょう。

 続くのが、同じく色界の十八天。
 下から――梵衆天・梵輔天・大梵天・少光天・無量光天・光音天・少浄天・無量浄天・遍照天・無雲天・福生天・廣果天・無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天――となります。

――なお、ここまでの色界の諸天においては、形や種類(の多寡)はともかく、物質的な肉体(に準ずるもの)を有し、まだ欲と言うものを持ち合わせている天でもあります。
 ただ「欲」とは言っても、六欲天はまだしも、色界十八天の諸天が持つ欲ってのは、我々がイメージ・想起するそれとは随分と違いますけどね。

 続く無色界は、天部の最高位に当たる、精神・意識のみ(という形に準ずる?)の世界であり、四つの世界があります。
 下から――空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処――となります。
 また最上位である「非想非非想処(ひそうひひそうしょ)」は別名・有頂天でもあります。
  んで。
  ここら辺まで来ると、もう、かなり観念的というか哲学的というか……ここらの諸天を(特に平易な)言葉で説明するのは困難というか不可能に近いです。
  また一部に於いては、いわゆる天国・天界~云々~とは大きく異なる観念・意義の「場所」でもあるので。

 ――物質的なものを全て捨て去り、真理(悟り)とか宇宙とかに関して理解するための場所……とでも思っておくしかないでしょう。
  これ以上の説明は私には無理です。
  少なくとも、読み手側も仏教における世界観や観念を正しく把握し理解していないと通じませんし、また理解できないと言っていいでしょう。

 あと。
 書いてない読み方は各自で調べてください。書くの面倒臭い。
 まぁその殆どが、古式な、文語的な音読みで読めば合ってるはずですよ。


 おっと、いけない。肝心なことを書き忘れてたよ。
 上で挙げた輪廻転生にせよ五趣・六道にせよ神々にせよ、初期の=お釈迦さまが説いていた頃の(原始)仏教においては、大して考慮されてないっつーか、むしろ時には消極的に否定されていたりもします。
 まず何よりも自分自身が何を志向し、何を考え行なうかであるのだ、って感じでしょうか。
 つっても、例えば「妙法蓮華経・提婆達多品 第十二」では、お釈迦さまの血縁であったダイバダッタの(いわゆる)前世なんぞが語られてもいますから、ちと否定っつーのは違うのかも知れませんけどね。そう重視はしていないとか、そう囚われたり意識しすぎてはいけないってことでしょうか。
 とは言え、この辺りは……まぁ時を経るに従って、変化していったり、または従来から近隣にあった考え方や要素を柔軟に取り込んでいったりする中での事例・事案も含まれているでしょうから、あんまり一概には言いにくいんですけどね。

 案外、初期の仏教ってのは、宗教っつーよりも倫理学や(広義での)哲学、あるいは人生論や人間学のようなもんですよ。
 つーか今でも根本は同じですけどね。
 カルトやら、いわゆる新興宗教である(自称)仏教系の団体を除けば。

 つーかね?
 本来、宗教ってのは、すがるものではないんですよ。勘違いしてる人が多いけど。
 あくまで根本・基本・基礎は倫理学と同質ですから。
 逆説的には、根っからの悪人心の脆弱な人には殉じることが困難なものと言っても過言でもありません。
 考えてもご覧なさいな?
 後述の「戒」なんてのは好例で――とりあえず不殺生は除いておきますが――要は「したくとも我慢しなさい」ってことですからね。敢えて悪めに言うなら、やせ我慢に近いと言えなくも無いもの。
 故に、こらえ性の無い人には堪え難い苦痛でしょうね。
  本当に一度「実行したい/その方がいい」と思ったが最後。
  物理的な戒め(=拘束)でも無い限り、何を言おうと、どういう結果が目に見えていようと絶対に止まらない/止められない人物もいますから。
  ええ、三人、いや五人ばかり心当たりがあります。
  まぁ、そういう人たちのための明王――って話なのかも知れませんが……その前に医者にでも行くべきでしょうね。



 こんな辺りかなぁ。
 あとは適当な豆知識めいたものでも。


○般若心経
 数多く存在した「般若(系)教典」をまとめた、全600巻以上にも及ぶ「大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみたきょう)」が西暦2~3世紀ころに成立しましたが、それを徹底的に要約し、また一部の陀羅尼(だらに:暗記すべき教え・作法や呪文)を合わせた、262文字のものが般若心経です。
 この[心]が要は「要約」や「抄本」と言う意味を示します。
 因みに、浄土真宗・日蓮宗・法華宗では般若心経を用いることはありません。
 これは他の経典を(教典として)用いていることで、わざわざ般若心経を用いる必要が無いためです。

○戒め
 最も基本的な、在家信者が守るものとして五戒があります。
・不殺生戒(ふせっしょうかい)=生き物を殺しちゃダメ
・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)=盗みをやっちゃダメ
・不邪淫戒(ふじゃいんかい) =浮気・不貞はダメ
・不妄語戒(ふもうごかい)  =他人を騙しちゃダメ
・不飲酒戒(ふおんじゅかい) =酒なぞ飲んじゃダメ


 加えて、特定の日――月に6回ある六斎日と呼ばれる日――に追加で守るものもあります。

・歌舞音曲(≒必需でない娯楽)を楽しんではいけません
・(無用な)豪華な寝台を使ってはいけません
・正午以降は食事をしてはいけません

――これら八つを合わせて「八斎戒」と言います。
 西遊記の猪悟能はこれらを守っていたことから「猪八戒」と呼ばれるようになったのです。

 また「捨戒」と言うものもあります。
 要は、妥当な事情があるのなら一時的に戒めを破っても構わない、ということ。
 戒を守り抜き続ける行動そのものが重要なのではなく、戒を基本の規範として常に正しく仏の教えを心に持ち続けることが重要なのだ、ってことですね。
 確かに戒は守るべきものですけど、だからと言って、それに振り回されるようなことや、目先の戒に囚われ大事を見過ごすようでは、それこそ本末転倒ですからね。そういう本来の目的・目標を取り違えるような言動への戒め、ということでもあるのでしょう。
 例えば「三種の浄肉」なんていうのも、捨戒の一種と捉えられるでしょう。
 もちろん、だからって破ってもいいなんて趣旨ではありませんよ?

 なお「戒」とは、己を律するための内面的な規範、と言うことになります。

 

テーマ:宗教・信仰 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/09/04(火) 21:17:11|
  2. 神話・伝承・宗教・掩蔽
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  4. | コメント:0
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 時に、口調や文体が微妙に適当だったりする場合がありますが、仕様ですね。保証期間も切れてますし、どうにもなりませぬ。諦めてください。
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